幸せの価値基準としてわかりやすいのが、お金や地位、学歴、美貌、家庭環境もそこに含まれるかも知れない。
「幸せ度を計る客観的指標」なだけあって、説得力もある。それらを持っている人が「幸せ」であり、持ってない人は「不幸せ」と評定できる。
近年だと、幸せ度を評定するのはあくまで他人であり、
『自分で「客観的指標」を用いて、幸不幸を計る必要などない』
といった考えが散見される。
ただこの考えに2つの疑問が出てくる・・・というか、私が受け止めきれないだけであるが。
1つはその考えの発言者が、客観的指標上、幸せ度が高いと評定される場合があることだ。
いま幸せな人の発言を聞いても、耳には入ってこない。
なぜなら、
「そんな人に、いまの自分の気持ちなど、推し量ることはできないでしょう?」
と、疑問を呈してしまうからだ。
実際には過去の苦痛な経験を共有して、そこから這い上がってきたストーリーを聞かさせると、発言者の説得性は増すかも知れない。
ただの、武勇伝に聞こえるケースも多々あるし、そう聞こえたらシャットアウトするが・・・。
もう1つは、自分で幸せ度を評定する「物差」が、なかなか見つからないことだ。
どちらかと言ったら、こっちのほうが、長期的には苦しみを与えるかも知れない。
「物差」が見つからないからこそ、どうしても客観的指標が色めき立ってしまい、負の連鎖に陥る・・・そんな気がする。
だから私のような捻じ曲がった考えの人間は、こう思ってしまう。
『幸せ度の評定は自分の「物差」で決めれば良いと言うけれど、でも、その「物差」が見つからないのだけどな・・・。』
100円ショップに行けと反論してきそうだけどね。
一旦、終わります。
水垣 梓希